
創世記は、宇宙、人類、文明、そして選ばれた家族の「起源」を網羅的に扱う書物ですが、同時にある決定的な「欠落」を抱えています。それは「神自身の起源」についての沈黙です。これは比較神学の視点から見れば、極めて特異な境界線といえます。古代近隣諸国の神話には、神々がいかにして誕生したかを語る「神話的な起源(テオゴニー)」や、神々の系譜や生涯を綴る「神の伝記(テオビオグラフィー)」が不可欠な要素として存在しました。しかし、創世記はそれらを徹底して排除し、神をあらゆる起源の「外部」に置きます。聖書において、神は始まり(רֵאשִׁית / rē’šît)であり、同時に終わり(אַחֲרִית / ’aḥărît)でもある唯一の超越者として描かれます。神に誕生日はなく、ただ「在る」のみ。この峻烈な一神教的リアリズムこそが、創世記を他のあらゆる起源神話から分かつ決定的な一線なのです。
起源を辿る旅の終わりに「創世記」というタイトルは、単にセピア色に褪せた過去の記録を整理するためのインデックスではありません。それは私たちが依って立つ文明や家族、そして日々受け取る「祝福」の根源を指し示す、生きた指針なのです。古代の人々が書物の「最初の数語」にその本質を託したように、私たちの人生という物語においても、始まりの言葉は未来を規定する力を持っています。もし、あなた自身の人生という壮大な叙事詩にタイトルをつけるとしたら、その冒頭に記される「はじめの言葉」は何になるでしょうか。その最初の一歩に込められた響きの中に、あなたという存在の起源と、これから紡がれるべき祝福の行方が、密やかに隠されているのかもしれません。

