
4月12日は日曜礼拝です。


すべて 疲れた人 重荷を負っている人の よりどころ





今度の日曜礼拝は受難礼拝としてお捧げします。人の罪を背負い、十字架でその命を捧げられたキリストの御思いに寄り添う時です。礼拝の中では、最後の晩餐の時に語られたイエス様の教えについて学びます。 10時30分〜11時45分です。


創世記は、宇宙、人類、文明、そして選ばれた家族の「起源」を網羅的に扱う書物ですが、同時にある決定的な「欠落」を抱えています。それは「神自身の起源」についての沈黙です。これは比較神学の視点から見れば、極めて特異な境界線といえます。古代近隣諸国の神話には、神々がいかにして誕生したかを語る「神話的な起源(テオゴニー)」や、神々の系譜や生涯を綴る「神の伝記(テオビオグラフィー)」が不可欠な要素として存在しました。しかし、創世記はそれらを徹底して排除し、神をあらゆる起源の「外部」に置きます。聖書において、神は始まり(רֵאשִׁית / rē’šît)であり、同時に終わり(אַחֲרִית / ’aḥărît)でもある唯一の超越者として描かれます。神に誕生日はなく、ただ「在る」のみ。この峻烈な一神教的リアリズムこそが、創世記を他のあらゆる起源神話から分かつ決定的な一線なのです。
起源を辿る旅の終わりに「創世記」というタイトルは、単にセピア色に褪せた過去の記録を整理するためのインデックスではありません。それは私たちが依って立つ文明や家族、そして日々受け取る「祝福」の根源を指し示す、生きた指針なのです。古代の人々が書物の「最初の数語」にその本質を託したように、私たちの人生という物語においても、始まりの言葉は未来を規定する力を持っています。もし、あなた自身の人生という壮大な叙事詩にタイトルをつけるとしたら、その冒頭に記される「はじめの言葉」は何になるでしょうか。その最初の一歩に込められた響きの中に、あなたという存在の起源と、これから紡がれるべき祝福の行方が、密やかに隠されているのかもしれません。


中世の写本やラビたちの深遠な注釈を紐解くと、この書物には「創造の書(セフェル・ハ・ベリア)」という宇宙論的な呼び名のほかに、もう一つの重要な別名があったことがわかります。それが「義人の書(セフェル・ハ・ヤシャール)」です。
世界の始まりを描く壮大な叙事詩が、なぜ個人の倫理性を問うかのような「義人の物語」として定義されたのでしょうか。そこには、天地創造という物理的事象の記録以上に、神の前に立つ「人間」のあり方を重視するユダヤ的知性が見て取れます。
宇宙の起源(コスモロジー)を、アブラハム、イサク、ヤコブといった先祖たちの生き様(キャラクター)へと収斂させることで、この書物は「祝福の継承」という倫理的な文脈へと昇華されたのです。中世の『ミドラシュ・ハビウル』は、この問いに対して次のような示唆に富む答えを残しています。「なぜ『ベ・レシート』は『義人の書』と呼ばれるのか? それは、アブラハム、イサク、ヤコブの歴史を含むからである。彼らは『義人の死を私に与えよ』(民数記23:10)と書かれたように、義人と呼ばれたからである。」

明日は、水曜祈り会です。創世記のメッセージをしています!

私たちはこの本を本当に「知って」いるだろうか?「ジェネシス(創世記)」という言葉は、現代において単なる聖書の書名を超え、壮大な物語や革新的なプロジェクトの代名詞として、私たちの文化的深層に深く浸透しています。しかし、この人類最古のベストセラーが、本来どのような名で呼ばれ、その表題にどのような思想が封じ込められていたかについては、意外なほど知られていません。私たちが使い古した「創世記」というラベルを剥がしてみると、そこには古代の感性が息づく、驚くほど直接的で知的な世界が広がっています。
私たちが慣れ親しんでいる「創世記」というタイトルは、ギリシャ語訳聖書(LXX)の「ゲネシス(Genesis)」を、ラテン語訳聖書(ヴルガータ)が「起源」を意味する語として継承したことに由来します。

しかし、ヘブライ語の原典における本来のタイトルは、**「ベ・レシート(בְּרֵאשִׁית / berē’šît)」**と呼ばれます。これは書物の内容を要約した抽象的な命名ではなく、1章1節の劈頭(へきとう)を飾る言葉、すなわち「はじめに」をそのままタイトルに据えたものです。この「インキピット(冒頭句による命名)」という伝統は、単なる慣習以上の意味を持っています。それは書物を「客観的な情報の束」として要約するのではなく、言葉が発せられた瞬間の力強さ、その「出会いの第一声」を最も重視する古代の合理的な感性の証左(しょうさ)といえるでしょう。この命名法は「モーセ五書(トーラー)」全体を貫く鉄則であり、そのリストは、言葉の断片がいかにして書物の魂を定義するかを雄弁に物語っています。


— 成功の場所から、痛みの場所へ
ファニーの人生で、最も胸に迫るのは晩年の歩みです。
名声を得た後も、彼女がそれに安住せず、貧しい人々の中へ身を置いた、と語られます。
当時のニューヨークには、深刻な貧困、移民問題、アルコール依存、犯罪、孤独がありました。
“レスキュー・ミッション”は、そういう人々に
を提供する運動でした。

ここでファニーが語ったとされる言葉が、とても牧会的です。
「罪を告げるだけでは、人は救えません。
彼らは自分の罪をすでによく知っているからです。
赦しと愛が待っていることを伝えなさい。…決して見捨ててはなりません。」
これは、福音の核心に近い。
人は責められると閉じます。
でも、愛されると開きます。
赦しを知ると、初めて悔い改めが“希望”になります。
彼女はたぶん、スラムの人々を「問題」として見なかった。
“救われるべき魂”として見た。
そして彼らの隣に立ち続けた。
ここに、神様の大きなメッセージがあります。

ファニー・クロスビーの人生は、こう語りかけます。
彼女に伝えられる、あの有名な言葉があります。
「天国へ行ったとき、最初に目にする顔が、救い主の顔であってほしい」
これは、美談ではなく信仰の中心です。
“この地上で見えないもの”が、永遠では最も確かな現実になる。
ファニーは、それを信じて歌い続けました。

明日は、種まき礼拝(キリスト教入門の礼拝です。どなたでもどうぞ^_^、午前10時30分〜お昼前まで。)