ちりと、いのちの息|創世記をひらく⑩

連載「創世記をひらく」第10回 ―― 創世記2章7節「いのちの息」

前回、人は「神のかたち」に造られた、という話をしました。けれど聖書は同時に、まったく逆に見える、もう一つの事実も語ります。

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」

人は、「ちり」から造られた、というのです。ちりとは、こわれやすく、限りある、土くれのこと。聖書は、人間の弱さを、隠しも飾りもしません。私たちは、弱い。傷つくし、間違えるし、つまずく。それを、人間らしさの一部として、ちゃんと認めています。

でも、それで終わりではありません。神は、その「ちり」に、ご自分の「いのちの息」を吹き込まれた。「息」という言葉は、もともと「霊」とも訳せる言葉です。つまり人は、ただの土くれでも、ただの生き物でもなく、神とつながって生きる、特別な存在として造られた、ということです。

ある人は、この場面を、こう描きました。神が、まるで口づけをするように、顔と顔を近づけて、ひとりの人に、愛といのちを吹き込まれた、と。―― それほど近く、それほど大切に。

ここに、人間の不思議があります。私たちは、弱い「ちり」でありながら、神の息を宿した、尊い存在。弱さと尊さが、同じ一人の中に、同居しているのです。

このことを忘れると、私たちは苦しくなります。「自分の価値は、自分で証明しなければ」「もっと役に立たなければ」。そうして、速すぎる社会の中で、終わりのない評価に応えようと走り続け、やがて疲れ果ててしまう。自分の弱さを、認められなくなる。

でも聖書は、まったく逆のことを言います。あなたは、初めから、価値がある。自分で自分の価値を、造り出さなくていい。―― あなたは「自分で生きている」のではなく、「生かされている」のだ、と。

その視点に立つとき、肩の荷が、ひとつ下ります。では、私たちはなぜ、これほど「価値を証明すること」に追い立てられるのでしょうか。次回、一冊の絵本とともに、ご一緒に。


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本当の自分を、探している|創世記をひらく⑨

連載「創世記をひらく」第9回 ―― 創世記1章26〜27節「神のかたち」

これまで、世界の始まり――揺れない方がおられること、闇の中にもう神が動いていたこと、光と秩序が与えられたこと――を、ご一緒に見てきました。今回からは、その世界に置かれた「あなた」へと、目を向けます。

私たちの心の奥には、生まれつき、ある渇きがあるように思います。「本当の自分を、探している」という感覚です。今の自分を、どこか受け入れきれない。「何かが違う」「もっとこうあるべきなのに」。心の中に、追いかけている誰かの姿がぼんやり見える気がして、近づこうとする。けれど、届かない。「自分探し」という言葉が、これほど広く使われるのも、そのためでしょう。

聖書は、世界の創造の、いちばん最後の場面で、人間が造られたことを語ります。

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」「神は人をご自身のかたちとして創造された。」

人は、「神のかたち」として造られた、と。古くから、人はこの言葉ゆえに「神の創造の冠」と呼ばれてきました。

「神のかたち」とは、姿かたちのことではありません。神は、目に見えない方ですから。それは、私たちの内側――理性、何かを生み出す創造する力、善悪を見分ける感覚、自分で選びとる自由、そして何より、誰かを愛する力。神がご自分に似せて、私たちに分け与えてくださった、目に見えない尊さのことです。

だとすれば、あの「自分探し」の渇き――追いかけても届かない理想の姿――は、いったい何なのでしょうか。

それは、ひょっとすると、私たちが「神のかたち」に造られたのに、その似せられた相手である神を、見失ってしまった、その空白なのかもしれません。自分が何に似せて造られたのかを忘れたまま、その姿だけを探し続けている。―― だとすれば、本当の自分にたどり着く道は、ひとつしかないことになります。

私たちが似せて造られた、その方を、知ること。

その方は、いったい、どんな方なのでしょうか。次回、ご一緒に。


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その混乱に、居場所が与えられる|創世記をひらく⑧

連載「創世記をひらく」最終回 ―― 創世記1章4節「神は光と闇を分けられた」

光が生まれました。では、闇はどうなったのでしょう。消し去られた、と思いきや ―― そうではありませんでした。

「神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。」

ここで言う「分ける」とは、引き裂くことではありません。それぞれに、ふさわしい居場所を与えることです。

神は、闇を消されませんでした。それを「夜」と名づけ、ちゃんと居場所を与えられたのです。考えてみれば、夜がなければ、私たちは休むことができません。神は、闇にさえ、休息という役割を与えられました。―― ということは、あなたの中の、弱いところ、まだ整理のつかないところさえ、神は秩序の中に置いてくださる、ということです。

茫漠として何もなかった世界に、こうして一本の線が引かれ、リズムが生まれました。「夕があり、朝があった。」働く時、休む時、人と過ごす時。私たちはそのリズムの中で、生かされています。

けれど聖書は、もう一つの「分ける」を語ります。同じ言葉です。―― 私たち人間のほうが、自分の歩みによって、神との間に、見えない仕切りを作ってしまった。神と人とを引き裂く、負の「分ける」。世界がこんなにも壊れて見えるのは、ここから始まりました。

それでも、聖書は、そこで終わりませんでした。最後に、こう告げます。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」

第1日に「光、あれ」と語られた神が、その御子イエスにおいて、あなたの心の闇に、もう一度「光あれ」と語ってくださっている。そして、罪の闇とあなたとの間に、十字架という、決定的な境界線を立ててくださった。

今、あなたは、整理のつかない混乱を抱えているかもしれません。何をしても形にならない、茫漠の中にいるかもしれません。その混乱のただ中に、神は線を引き、居場所を与え、こう語ってくださいます。「あなたを、わたしのものとする」と。

もし、この続きを、誰かと静かに話してみたいと思われたら ―― 岩槻福音自由教会の戸は、いつでも開いています。日曜の礼拝にも、平日のバイブルカフェにも、どうぞ気軽にお越しください。茫漠とした地の上に、もうすでに動いておられた、あの神の霊が、今、あなたのところにも吹いています。


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神が、いちばん最初にされたこと|創世記をひらく⑦

連載「創世記をひらく」第7回 ―― 創世記1章3節「神は仰せられた」

闇が覆う世界。そこに、もうすでに神がおられた。―― では、その神が、いちばん最初にされたことは、何だったでしょうか。

戦うことでも、打ち砕くことでも、何かを生み出すことでもありませんでした。

「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」

神がまずされたのは、「言う」ことでした。何もない、暗闇の世界に向かって、ただ、語られた。それだけで、光が生まれた。

おもしろいのは、この「言う」という言葉です。前に、世界を「創造する」という動詞は、神だけが主語になれる特別な言葉だ、とお話ししました。ところが、この「言う」のほうは、まったく逆で、私たちも毎日使う、ごくありふれた日常の言葉なのです。

呪文でも、魔術でもない。気合でもない。ただ、静かに語る。神は、その平凡なひとことで、闇に光を呼び出されました。

そして、その言葉は、独り言では終わりませんでした。創世記の最初の一章で、「神は言われた」という言葉は、くり返し現れ、やがて、造られた人間そのものに向かって語られていきます。神は、遠くから世界を動かす方ではなく、あなたと言葉を交わしたいと願っておられる方なのです。

だとすれば、私たちの一日も、何かを言い、何かをし始める前に、その声に耳を澄ますことから、始められるのかもしれません。

聖書は、ずっとのちのページで、この「光あれ」と言われた言葉について、もう一段深いことを告げます。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。……このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

あの日、闇に「光あれ」と語られた、その言葉ご自身が、やがて人となって、あなたの心の闇のただ中に、もう一度「光あれ」と語りかけている、というのです。

では、生まれたその光は、闇を消し去ってしまうのでしょうか。神は、闇をどうされたのか。いよいよ最終回で、ご一緒に。


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あなたの一番暗いところに、もう|創世記をひらく⑥

連載「創世記をひらく」第6回 ―― 創世記1章2節「神の霊が、その水の面を動いていた」

前回、世界の始まりが「茫漠として何もなく、闇が大水を覆っていた」という、希望の見えない情景から描かれることを見ました。今回は、その同じ一文の、続きに立ち止まります。

「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」

よく見ると、この一文には、三つの情景が並んでいます。茫漠とした地。闇。大水。―― 前の二つの主語は、どれも「生きていないもの」です。ところが、最後の最後に、はじめて「生きておられる方」が、主語として現れます。「神の霊が、動いていた」。

この「霊」という言葉は、もともとの言葉(ヘブル語のルーアッハ)では、「風」とも「息」とも訳せる言葉です。激しい風が闇の水の上を吹き渡るように、神の力が、もうすでに、そこに動いていた。

注目したいのは、その順序です。光が生まれるよりも前に。世界が整えられるよりも前に。すでに、神はそこにおられた。

私たちは、つい逆のことをします。「状況が良くなったら」「光が見えてきたら、信じよう」と。けれど聖書の順序は、反対です。闇のただ中で、もうすでに神が動いておられる、と信じる。光が差すのを待ってからではなく、まだ暗いうちに。

聖書の詩篇139篇で、ダビデという人がこう歌っています。たとえ「闇よ、私をおおってくれ」と願っても、神にとって闇は少しも暗くなく、夜も昼のように明るいのだ、と。

眠れない夜、暗い天井を見上げている時。どうにもならない問題の、ただ中にいる時。神は、まさにその、あなたの一番暗いところに、すでにおられます。逃げ出した先ではなく、その闇の中に、隠れるようにして、もう動いておられる。

あなたがその方を見つけるよりも、ずっと前から。

その神が、ついに、口を開かれます。闇に向かって、神が最初に語られた言葉を、次回ご一緒に。


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何をしても、形にならないと感じる時に|創世記をひらく⑤

連載「創世記をひらく」第5回 ―― 創世記1章2節「地は茫漠として何もなく」

これまで何回かに分けて、世界のいちばん始まりに「揺れない方」がおられること、そして、あなたが偶然の産物ではなく、心を込めて造られた一人であることを、ご一緒に見てきました。今回からは、もう少し正直な問いに、踏み込んでみたいと思います。―― それなら、なぜ私の毎日は、こんなにも手応えがないのでしょうか。

何をやっても、形にならない。働いても、片づけても、また同じところに戻ってくる。心の中に、何も育っていかない荒れ地のような時期が、人生にはあります。むなしさ、と呼んでもいいかもしれません。

おどろくことに、聖書は、世界の始まりを、まさにそういう一言から描き出します。

「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり……」

「茫漠(ぼうばく)」―― あまり聞きなれない言葉です。形がなく、何も生きられない、荒れ地のような状態を指します。

ここで一つ、誤解を解いておきたいことがあります。これは「混沌(カオス)」―― いったん秩序があったものが壊れて、ぐちゃぐちゃになった状態 ―― ではありません。聖書が言う「茫漠」は、崩れた後の混乱ではなく、まだ何も始まっていない静けさです。神の手が、これから触れようとしている、その前の世界。

闇が、大水を覆っていました。聖書の中で、闇も、大水も、人の手にはどうにもならない、希望の見えないものの象徴です。

けれど、見落としてはならない言葉があります。それが絶望的に見えたのは、あくまで「私たち人間にとっては」、ということです。地は、はじめ、人にとっては生きるのに絶望的な場所でした。―― でも、それは「終わってしまった場所」ではなく、「まだ始まっていない場所」だったのです。

あなたの心に広がる、その荒れ地も、もしかしたら、終わりではなく、まだ始まっていないだけなのかもしれません。

聖書は、この絶望的に見える一文を、絶望のまま終わらせませんでした。同じ一文の、最後の最後に、思いがけない言葉が続きます。それを、次回ご一緒に。


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もう一度、光が差す|創世記をひらく④

連載「創世記をひらく」最終回 ―― 創世記1章4節/3章6節

ここまで、世界の始まりに「揺れない方」がおられること、そして、あなたが偶然ではなく、造られた一人であることを、見てきました。けれど、正直な問いが残ります。―― それなら、なぜ、この世界は、こんなにも壊れて見えるのでしょうか。

聖書の最初の章には、ふしぎな言葉がくり返されます。「神は、それを見て、良しとされた」。世界を造った神が、ご自分の造ったものを見つめて、「良い」とほほえむ。そういう場面です。

ところが、その少しあとの章で、よく似た言葉が、別の主語で現れます。最初の人間が、禁じられていた木の実を前にして、「見ると、それが良さそうに見えた」。原語では、神の「見て、良しとされた」と、ほとんど同じ形です。聖書は、これを、わざと重ねて書いています。

何かが、すり替わったのです。

「何が良いか」を決める方が、神から、人へと。私が良いと思うものを良いとし、私が要らないと思うものを切り捨てる。世界の中心に、神ではなく、自分を据える。―― 聖書が「罪」と呼ぶのは、まさに、このすり替えのことです。世界が壊れて見えるのは、ここから始まりました。

では、すり替わった目は、もう、元には戻らないのでしょうか。

聖書は、一人の方を指さします。人々から軽んじられ、見栄えもなく、十字架の上で捨てられた方。私たちの歪んだ目には、その姿の美しさが、分かりませんでした。けれど神は、その方を見て、こう言われました。「これは、わたしの愛する子。」

あなたが、まだ神に背を向けていたときに。何の役にも立てなかったときに。その方は、あなたの代わりに、その場所に立ってくださった。あなたの存在そのものを、もう一度「良い」と言うために。

暗い空に、光が差し込むように。

神の「良し」が、あなたのところに、もう一度、届こうとしています。

あなたの心に、今、その光は、届いているでしょうか。

もし、この続きを、誰かと静かに話してみたいと思われたら ―― 岩槻福音自由教会の戸は、いつでも開いています。日曜の礼拝にも、平日のバイブルカフェにも、どうぞ気軽にお越しください。


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あなたは、偶然ではない|創世記をひらく③

連載「創世記をひらく」第3回 ―― 創世記1章1節「創造した」

「はじめに、神が、天と地を、創造した。」

この「創造した」という言葉は、聖書の中で、少し特別な使われ方をしています。原語(ヘブル語で「バーラー」)でこの動詞は、いつも神だけが主語になる。人が何かを「作る」ときには、別の言葉が使われます。神が世界を生み出すこの行為は、人間のものづくりとは、比べものにならない ―― そういう特別な一語なのです。

おもしろいのは、聖書が「何から」造ったかを、語らないことです。土からとも、火からとも言わない。語られているのは、ただ「誰が」造ったか。ある人は、その神を「偉大な芸術家」にたとえました。材料にも、道具にも、誰の指図にもよらず、ただご自身の思いのままに、自由に、世界を描き出した方。

そしてその芸術家は、細部の手を抜きませんでした。スペインのサグラダ・ファミリアを建てた職人たちは、見えない場所の彫刻一つにも妥協しないといいます。「神は、蔦の葉一枚さえ、手を抜いて造られないのだから」と。

その同じ手が、あなたを造ったのだ、と聖書は言います。

あなたの顔も、性格も、得意なことも、不得意なことも。自分では好きになれない部分さえ。神は、あなたを造るときに、手を抜かなかった。あなたは、たまたま生まれてしまった偶然の産物ではなく、心を込めて生み出された、一つの作品なのだ、と。

「神に、失敗作は一つもない。」

そして、もう一つ。この方は、あなたという作品を、もう完成したとは思っていません。むしろ、今も、造り続けておられる。「あなたのうちに良い働きを始められた方は、それを最後まで仕上げてくださる」と、聖書は約束します。

あなたは、偶然ではない。

そして、まだ、途中です。

このことを、次回はもう少し深く ―― 世界がなぜ、こんなにも壊れて見えるのか、という問いとともに、ご一緒に。


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自分の物語の、主人公でいることに疲れていないか|創世記をひらく②

連載「創世記をひらく」第2回 ―― 創世記1章1節「神が」

前回、聖書のいちばん最初の一文に、「始まりのない方」がおられることを見ました。今回は、その続きの一語に、立ち止まります。「はじめに、神が」。

私たちは、いつのまにか「自分の人生の主人公は、自分だ」と思って生きています。自分の力でここまで来た。自分の選択で道を切りひらいてきた。―― それは、ある意味では、本当のことです。

でも、その「自分が主人公」の物語は、けっこう、疲れるものではないでしょうか。

すべてを自分で背負わなければならない。失敗すれば、自分の責任。先が見えなければ、自分でなんとかするしかない。気づけば、肩に力が入りっぱなしで、夜になっても、緊張がほどけない。自分が物語の主人公だということは、自分がすべての重荷を負う、ということでもあるからです。

聖書は、ずっと昔から、静かに問いかけてきます。

「それは、あなたから始まったのだろうか」と。

この世界は、あなたから始まったのではない。あなたの人生さえ、あなたから始まったのではない。はじめに、神が、この世界を造り、そして、あなたをも造られた。―― もしそうなら、あなたは、物語の「主人公」ではなく、もっと大きな物語に「招かれた一人」なのかもしれません。

それは、自分が脇役に格下げされる、という話ではありません。むしろ逆です。重すぎる主役の荷を、いったん下ろしていい、ということです。すべてを自分で背負わなくていい。あなたより先におられた方が、その物語を、引き受けていてくださる。

肩の力を抜いて、こうつぶやいてみる。「はじめに、神が」。

すると、今日という一日が、自分の手柄でも、自分の責任だけでもない、贈られた一日として、見えてきます。

あなたは今、どれだけの重荷を、一人で背負っているでしょうか。

その荷を、少し下ろしてみたいと思われたら ―― 次回も、ご一緒に。


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すべての前に|創世記をひらく①

連載「創世記をひらく」第1回 ―― 創世記1章1節「はじめに」

私たちは、いつも何かに寄りかかって生きています。

お金があれば、なんとかなる。家族がいれば、さびしくない。健康なら、まだ大丈夫 ―― 。そうやって、何かに体重をあずけて、私たちは日々を立っています。

けれど、ふと夜中に目が覚めて、説明のつかない不安に襲われることがあります。あの不安は、どこから来るのでしょうか。

ひとつには、こうかもしれません。私たちが寄りかかっているものは、どれも「いつか終わるもの」だからです。お金は失われ、健康は衰え、どんなに大切な人も、いつまでも隣にいてはくれません。足もとの地面でさえ、大きな地震が来れば、ひっくり返ってしまう。始まりがあり、やがて終わりがくる ―― この世界にあるものは、すべてそうです。揺れるものの上に立っていれば、心が揺れるのは、むしろ当たり前なのかもしれません。

聖書は、いちばん最初のページを、こんな一文で始めます。

「はじめに神が天と地を創造された。」

短い一文ですが、よく見ると、不思議なことが書かれています。世界の「始まり」が語られているのに、その世界を造った神には、始まりが書かれていない。聖書は、ありとあらゆるものの起源を語る本でありながら、ただ一つ、神の起源だけは語らないのです。始まりもなく、終わりもない。すべてのものよりも前に、ただ、おられた方。

もし、そういう方が本当におられるのなら ―― 。

それは、この世界でただ一つ、揺れない場所なのかもしれません。

この一文を知るとき、世界の見え方が、少し変わります。今、目の前にあるものが「すべて」ではなくなる。今かかえている悩みも、この時代の「当たり前」も、絶対のものではなくなる。それらよりも、もっと前に、もっと大きく、おられた方がいる。分厚い雲に覆われた空に、ひとすじの光が差し込むように。

あなたは今、何に寄りかかって、立っているでしょうか。

そして、それは、揺れない場所でしょうか。

その問いを入り口に、これから何回かに分けて、聖書のいちばん最初の言葉を、ご一緒にたどってみたいと思います。


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