ひとりぼっちは、もう終わっていい|友と呼ばれて④

連載「友と呼ばれて」最終回 ―― ルカ19章8〜10節「今日、救いがこの家に来た」

「ザアカイ、急いで降りて来なさい」。―― この「降りて来なさい」には、思いがけない奥行きがあります。

ザアカイは、ずっと「上へ、上へ」と登る生き方をしてきました。お金で、地位で、自分の価値を自分で証明しようとして。救いさえも、木によじ登ってでも、自分の手でつかもうとして。気づかぬうちに彼は、「自分で自分を救う」という、小さな神の座に、登っていたのです。

その彼に、イエスは言われました。降りて来なさい、と。もう、あなたが必死でつかもうとしていたものは、最初から、あなたのものになっているのだから、と。

イエスがザアカイの家に入ると、群衆はつぶやきました。「あの人は罪人のところに行って客になった」。聖書は「人々はみな」と書きます。―― この「みな」の中に、自分はいない、と言い切れる人が、いるでしょうか。「どうして、あの人が」。ふさわしくないと思える誰かに恵みが及ぶとき、私たちの心にも、同じつぶやきが生まれないでしょうか。

けれどイエスは、つぶやきに動じず、ザアカイの食卓に着かれました。当時、食卓を共にすることは、家族になるほどの深い意味をもっていました。イエスは、罪人の友と呼ばれることを、恥としなかったのです。

すると、ザアカイの方が、立ち上がってこう言いました。「私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

あれほど握りしめていた富を、なぜ手放せたのでしょう。―― もう、富で自分を守る必要が、なくなったからです。本当の友を得た、と知ったから。ひとりぼっちが、終わったから。

イエスは、最後にこう宣言されました。「今日、救いがこの家に来ました。……人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

救いとは、結局、イエスご自身でした。救いそのものであるお方が、孤独な男の家に、自分から訪ねて来てくださった。

だから、最後にお伝えしたいのです。神の友情は、もう、あなたに差し出されています。受け取るに値する自分になろうと、もがかなくていい。ただ、受け取るだけ。それが、福音です。

イエスは今日も、あなたを見上げ、あなたの名前を呼んでおられます。「急いで降りて来なさい。今日、わたしは、あなたの家に泊まることにしている。」

もし、この友情について、もっと知りたい、誰かと静かに話してみたいと思われたら ―― 岩槻福音自由教会では、月に一度、「キリストの友」と題して、聖書が語る“友”を礼拝でご一緒に開いています。今日のザアカイのお話も、その一回で分かち合ったもので、教会のYouTubeチャンネルでもご覧いただけます。次回の日程は、教会ホームページの集会案内でご覧いただけます。日曜の礼拝にも、平日のバイブルカフェにも、どうぞ気軽にお越しください。あなたのひとりぼっちは、もう終わっていいのです。


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下から、あなたを見上げる人|友と呼ばれて③

連載「友と呼ばれて」第3回 ―― ルカ19章5節「今日、あなたの家に」

木の上から、人混みの向こうのイエスを、ザアカイは見つめていました。ただ、遠くから一目見られれば。彼が望んでいたのは、その程度のことだったでしょう。

ところが、です。

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。』」

群衆の中で、誰からも見下されていた人を、神の御子が、下から、見上げられた。これは、静かですが、世界がひっくり返るような場面です。

しかも、イエスは彼の名前を呼びました。「ザアカイ」。町の人は、彼を「取税人」「金持ち」という、立場や持ち物で見ていました。でもイエスは、そうは見ない。彼を、一人の人間として、いや、もう「友」として、名前で呼ばれたのです。

ここでイエスが言った「今日」という言葉も、ただの今日ではありません。聖書の中で、イエスが「今日」と言うのは、いつも特別な場面ばかりです。救い主の誕生の夜に。約束が成就した日に。十字架の上で、隣の罪人に「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」と語ったときに。―― 救いは、「いつか」ではないのです。「もう少し立派になったら」でも、「自分を整えてから」でもない。今日、なのです。

そして「泊まることにしているから」。この言葉は、原語では「~ねばならない」という、強い決意を表す言葉です。イエスがご自分の十字架を語るときに使うのと、同じ言葉。つまりイエスにとって、ザアカイの家へ行くことは、十字架と同じ重さをもった、揺るがない救いの計画だった、ということです。

ザアカイは、自分でイエスを見つけた、つもりでいました。でも、本当は違いました。ザアカイがイエスを見上げるよりも、ずっと前から――イエスの方が、ザアカイを、捜しておられたのです。

あなたが神を探すより先に、神があなたを探している。これが、福音の入り口です。では、見つけられたザアカイは、どう変わったのか。いよいよ最終回で。

※この連載「友と呼ばれて」は、岩槻福音自由教会が月に一度ひらいている礼拝「キリストの友」をもとにした伝道エッセイです。もとになった説教は、教会のYouTubeチャンネルでもご覧いただけます。次回の礼拝の日程は、教会ホームページの集会案内でご覧いただけます。はじめての方も、どうぞお気軽に。


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いい大人が、木に登った|友と呼ばれて②

連載「友と呼ばれて」第2回 ―― ルカ19章1〜4節「ザアカイ」

前回、人は「ひとりでいるのは良くない」存在として造られた、という話をしました。今回は、その「ひとりぼっち」を、誰よりも深く生きていた一人の男に会いに行きます。名前を、ザアカイといいます。

聖書はこう紹介します。「ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」

取税人とは、占領していたローマ帝国に雇われて、同胞から税金を取り立てる人のこと。当時のユダヤ社会では、裏切り者の代表でした。しかもザアカイは、その元締め。町じゅうから嫌われていました。

彼は、なぜ取税人になったのでしょう。聖書は語りませんが、想像はできます。お金があれば、誰にも見下されない。地位があれば、後ろ盾になる。―― きっと彼は、お金で「自分の価値を認めさせたかった」のです。けれど結果は、逆でした。富は増えても、人は離れ、彼はますます孤独になった。「こんなつもりじゃなかったのにな」。そんな寂しさを、彼はどこかに抱えていたはずです。

ある日、ザアカイは、イエスという方が町を通る、という噂を聞きます。どういうわけか、彼は思いました。「会ってみたい」。よくは知らない。でも、この方なら、自分に何か新しい光をくれるかもしれない、と。

ところが、通りには人だかり。聖書はここで、小さな、しかし切ない一言を残します。「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。」

この「群衆のために」は、原語ではただ視界がさえぎられた、という意味ではありません。「群衆の“ゆえに”」――つまり、人々が意図的に、彼を前に行かせなかった、ということなのです。「お前は仲間じゃない」。「仲間」という美しい言葉で、人は時に、こんなにも冷たい線を引きます。

それでもザアカイは、あきらめませんでした。先回りして、木に登ったのです。立場ある大人の男が、子どものように木によじ登る。当時、これは相当に恥ずかしい行為でした。それでも彼は、登った。―― お金でも地位でも満たせなかった渇きが、彼を、そうさせたのです。

木の上の彼に、このあと何が起きたか。次回、ご一緒に。

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大人になると、友達は作りにくい|友と呼ばれて①

連載「友と呼ばれて」第1回 ―― 創世記2章18節「人がひとりでいるのは良くない」

「本当の友達」と聞いて、あなたは誰の顔を思い浮かべるでしょうか。

子どもの頃からの幼なじみかもしれません。苦しい時期を一緒に過ごしてくれた人かもしれません。―― けれど、こう感じる方も、少なくないのではないでしょうか。「大人になると、友達って、なかなか作りにくいな」。「気がつけば、本当の友と呼べる人が、いない気がする」。

仕事の付き合いはある。SNSのつながりもある。それでも、夜ふと、説明のつかない寂しさに包まれることがあります。

聖書は、私たち人間を、こんなふうに見ています。―― 人は、誰かとの「交わり」のために造られている、と。

聖書のいちばん最初のページで、世界を造った神は、ご自分のことを、不思議な呼び方で語ります。「さあ、人を、われわれのかたちとして……造ろう」。「われわれ」。神は、ご自分の内に、永遠の愛の交わりをもっておられる方だというのです。そして、その交わりの神が、ご自分に似せて、私たちを造られた。

だとすれば、私たちの存在のいちばん深いところには、初めから「つながりたい」という願いが、書き込まれていることになります。

おどろくことに、その創造の物語の中で、神が初めて「良くない」と口にした場面があります。何もかもを「良い」と見ておられた神が、ただ一つ、こう言われたのです。「人が、ひとりでいるのは良くない」。

ひとりぼっちは、ただ寂しいだけではない。私たちの設計そのものに、反している。―― 聖書は、そう言っているのです。

では、その「交わり」は、どこから来るのでしょうか。これから何回かに分けて、聖書が描く「友」を、ご一緒にたどってみたいと思います。とりわけ、友達の作り方が分からなかった、ある一人の嫌われ者の話から。次回、ご一緒に。

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