
今週、水曜日は祈り会です。教会の皆様と共に、聖書の言葉に聴き、互いのために祈りあう時間です。ご興味がある方は、クリスチャンの方でなくてもおいでください。
午前10時30分〜お昼前まで。午後7時15分〜8時30分まで。

すべて 疲れた人 重荷を負っている人の よりどころ

今週、水曜日は祈り会です。教会の皆様と共に、聖書の言葉に聴き、互いのために祈りあう時間です。ご興味がある方は、クリスチャンの方でなくてもおいでください。
午前10時30分〜お昼前まで。午後7時15分〜8時30分まで。

1. なぜ私たちは「根無し草」のような不安を感じるのか
新しい環境に身を置き、慣れない日々に追われていると、ふと自分がどこにも属していないような「根無し草」の不安に襲われることがあります。それは、自分を支える大地が見当たらないような、心細い感覚かもしれません。私の妻が以前、育った街である京都へ、大学の同窓会のために一日だけ出かけた時のことです。その間、私は当時3歳だった息子の子守りを引き受けたのですが、これが想像を絶する大変さでした。「一日くらいなら簡単だ」と高を括っていた自分を恥じるほど、育児という日常の重みに心身ともにくたくたになったのです。しかし、日帰りで戻ってきた妻の顔を見て驚きました。その表情が、出かける前よりもずっと明るく、活力に満ちていたからです。彼女は用事の合間に、かつて歩いた道や懐かしい場所を訪ねたと言います。自分のルーツ(根源)を肌で感じ、自分がどこから来たのかを確認したことで、知らず知らずのうちに枯渇していたエネルギーが内側から湧いてきたのでしょう。慣れない土地での生活や役割に翻弄される中で、私たちは「自分が何者であるか」を忘れてしまいがちです。だからこそ、自分の起源を再確認することは、困難な状況においても自分を支える「心の土台」を強くしてくれるのです。今、祈り会では創世記を学び始めています。ぜひあなたも聖書を学びに来ませんか?

神は声なき声であなたに語り続けています。沈黙しない御声に応えるために周囲を取り巻くイメージ(映像)がどれほど激しく揺れ動いても、真実の御声が沈黙することは決してありません。聴くことは、単に音を耳に入れることではなく、相手に同調し、責任を持って応答しようとする積極的な選択——すなわち「修養」です。私たちが静寂を選び、相手の話に「最高の注意力」を向けるとき、そこにはかつての園のような、いのちが芽吹く空間が立ち現れます。聴く力とは、相手の魂に水を注ぎ、世界を秩序立てる最も静かで、最も力強い変革の力なのです。今日、あなたがスマートフォンの通知をオフにして、誰かの言葉に「最高の注意力」を捧げるとしたら、それは誰のためですか? その一瞬の沈黙から、新しい世界が始まろうとしています。

本日、3月1日は日曜礼拝です。どなたでもどうぞ。
聖書の言葉を耳を傾け、一緒に讃美歌を歌い、心の平安を求めにいらっしゃいませんか。

効率化が奪う「人間としての存在証明」現代のコミュニケーションは、効率性を追求するあまり、存在の深みを切り捨ててきました。象徴的なのは2007年という分岐点です。この年、携帯電話でのテキスト送信回数が通話回数を上回りました。テキストは利便性を提供しますが、そこには生身の声が持つ「共鳴」や「魂の響き」が欠落しています。ある会社のオフィスでは、ある人が「空のマグカップ」を掲げてゆっくりとキッチンへ向かう密かな儀式が生まれているそうです。誰かがキッチンに向かうと、ちょっと息抜きして、仕事以外の話をしようよ、という合図になっているそうです。のは、殺伐とした効率主義の砂漠の中で、彼らは無意識に「園(エデン)」を求めているのです。コーヒーの香りとともに交わされる静かな会話こそが、魂を潤すオアシスとなっているのかもしれません。哲学者チャールズ・テイラーは、「人の存在を認めないことや誤認することは、その人を深く傷つけるだけでなく、ある種の迫害と同じである」と警告しました。私たちが相手をしっかりと「凝視」し、その言葉を聴かないことは、相手を歪められたアイデンティティの中に閉じ込め、存在を抹殺する行為に等しいのです。対して、愛をもって見つめ、聴くことは、相手に「あなたはここにいていいのだ」という究極の存在証明を与えることなのです。

2. :最高の注意を払うことは「祈り」と同じである哲学者シモーヌ・ヴェイユは、傾聴の本質について、私たちの背筋を正すような鋭い洞察を残しています。「最高レベルまで注意力を用いて聴くことは、祈りと同じようなものです。信仰と愛が、その前提条件になります。」
この「最高の注意力」は、データや数字を処理するような知的な理解とは決定的に異なります。例えば、庭を手入れするガーデナーの姿を思い浮かべてください。彼らは単に「植物を観察」しているのではありません。前屈みになり、五感を総動員して対象に向き合います。葉の色艶を見つめ、茂みが立てるさらさらという繊細な音に耳を澄ませ、土の香りを吸い込み、指先の感触で生命を確かめる――。
このような心身すべてを投げ出した姿勢こそが「観想(コンテンプレーション)」であり、祈りの本質です。税理士が計算のために心と体を切り離すような作業や、メディア・サーフィンで注意を散漫にさせる行為とは対極にあります。相手に最高の注意を向けるとき、私たちは自らを聖霊の働きに開き、信頼と愛という「危険なほどに純粋な領域」へと踏み込むのです。

騒がしい世界で、私たちは本当に「聴いて」いるか?現代社会は、さながら「サーカスのような喧騒」に包まれています。テレビやラジオのノイズ、絶え間なく鳴り響くスマートフォンの通知音。私たちの周りは音で溢れかえっていますが、皮肉なことに、本当の意味で大切な人や自分自身の心の声に耳を傾けている時間は、かつてないほど失われています。旧約聖書のアダムとエバの物語が教えるところによれば、人間は本来「園(エデン)」に住むよう意図された存在でした。この物語が示唆する本質的な真理の一つは、私たちが口や耳を通して自分の内側に「何を入れるか」という選択の自由を持っていることです。禁じられた果実を口にするのか、あるいは生かす言葉を耳に入れるのか。この「物理的・霊的な摂取」の選択こそが、私たちの魂のあり方を決定づけます。「聴くこと」は、単なる情報の受動的な受け取りではありません。それは、渇いた魂に水を注ぎ、人間関係を深く耕すための「修養」の鍵です。効率ばかりが称揚される現代において、私たちは今一度、聴くことを通じて神聖な園を回復させる知恵を学ばなければなりません。

散歩していたら出会いました。
ジョウビタキのオスです。
明日は祈り会です。
午前10時30分〜お昼前まで。

今週、木曜日はバイブルカフェみぎわです。リラックスした雰囲気の中で、聖書のお話とおしゃべりをして過ごします。どなたでもご自由にどうぞ。時間は木曜日、午後1時30分から3時です。無料です。
